ミュージカル「Hell’s Kitchen」は、シンガーソングライターのアリシア・キーズの楽曲によって構成された、いわゆるジュークボックス・ミュージカルです。
2023年10月にオフ・ブロードウェイで初演され、あっという間にオン・ブロードウェイへの格上げが決まったようです。2024年4月にオン・ブロードウェイでの公演が始まった頃から、私の周り(ミュージカル好き)でも話題になっていました。
アリシア・キーズについて簡単に触れると、2001年に発表したデビューアルバム「Songs in A Minor」がすぐに大ヒットとなり、セカンドアルバム「The Diary of Alicia Keys」(2003年)、サードアルバム「As I Am」(2007年)も続けてヒットし、アメリカR&Bシーンを代表するシンガーの一人になりました。
日本にいた頃からR&B・ソウル系の音楽が好きだった私は、アリシアの最初の3枚のアルバムも持っていて、よく聴いていました。「As I Am」は、ちょうど私がニューヨークに住み始めた頃発売されたのを覚えています。以後しばらくアリシアの音楽からご無沙汰していましたが、このミュージカルについてはぜひ観てみたい!と思っていました。
2024年6月に開催された第77回トニー賞授賞式では、「Hell’s Kitchen」から「Empire State of Mind」のパフォーマンスが披露されましたが、アリシア自身が登場して歌うと共に、Jay-Zもサプライズ出演して話題になりました。
公演開始当初は人気でチケット代が高かったこともあり、もう少し落ち着いてから観に行こうと思いながら、つい先延ばしにしてしまいましたが、ようやく鑑賞できました。
観る前はアリシアの自叙伝的なお話なのかと思っていましたが、架空の女の子が成長する姿を描いたミュージカルでした。ただ、彼女の実際の生い立ちも主人公のキャラクターに反映されています。
1. 基本情報
作品名:Hell’s Kitchen
作詞作曲:Alicia Keys
脚本:Kristoffer Diaz
監督:Michael Greif
劇場:Shubert Theatre (225 W 44th Street, New York, NY)
観劇日時:2025年4月6日 午後3:00〜5:30
シューベルト劇場では、以前ブログで紹介した「Some Like it Hot」の公演が2023年末まで行われていました。その終了後に「Hell’s Kitchen」公演が始まりました。


2. あらすじ
前半
舞台はニューヨーク、ヘルズ・キッチン地区のアパートビル。17歳の少女アリは母親ジャージーと二人で暮らしているが、過保護な母親に何かと反発する。
アリは青年ナックと出会い恋に落ちるが、 自宅でアリとナックが一緒に居るのを発見したジャージーは、怒って警察に通報する。
アパートビル内のピアノが置いてある広間で、アリはリザ・ジェーンという女性と出会い、ピアノを教わり始める。アリの音楽の才能が開花し始める。
後半
ナックの一件でアリとジャージーの関係は険悪になり、ジャージーは別れた夫(アリの父)デイヴィスに連絡して助けを求める。アリとデイヴィスは再会し、音楽を通して絆を取り戻そうとする。しかし、デイヴィスはジャージーとアリの元には戻ってこない。
ナックはニューヨークを去ることになり、アリの初恋は終わる。更に、ピアノの師リザ・ジェーンは重い病気を患っていて、亡くなってしまう。
失恋や師との死別を経験したアリは悲しみに沈むが、母との関係を修復しながら、ニューヨークで音楽の夢を追うことを決意する。
3. 感想など
アリシア・キーズのヒット曲が次々に出てきて、私にとっては懐かしく、つい一緒に歌いたくなる興奮を覚えました。
いくつか有名どころを挙げると、
- 「You Don’t Know My Name」... ナックのことが気になるアリに対し、ナックに話しかけるようにアリの友達がけしかける場面で歌われます。一目惚れした男性への募る想いと妄想(笑)を歌った曲なので、歌詞にピッタリのシーンでした。
- 「Fallin」...ジャージーと元夫デイヴィスが再会し、話しているうちにいい雰囲気になる場面で歌われます。揺れ動く恋心を歌うこの曲はアリシアの最初のヒット曲で、原曲はソウルフルですが、ミュージカルではぐっとジャジーでカッコいいアレンジになっていました。
- 「If I Ain’t Got You」... アリとデイヴィスが再会する場面で、デイヴィス(職業がピアニスト)がピアノを弾きながらこの曲をアリと一緒に歌います。父娘の心温まるシーンと言えば聞こえは良いですが、このデイヴィスは信用ならない男に描かれていて、再会後にジャージーとよりを戻すのかと思いきや、その後ディナーの約束をすっぽかしたりして結局戻ってきません。この「If I Ain’t Got You」は、「あなた以外、他の何もいらない」といった純粋な愛を美しいメロディで歌い上げるバラードで、アリシアの曲の中でも私にとって特別なので、きっと大事なシーンで使われるのだろうと期待していただけに、使われ方がちょっと残念でした。
- 「No One」...上記のとおり、デイヴィスがジャージーとアリとのディナーの予定をすっぽかした後、ジャージーとアリがお互いかけがえのない存在であることに改めて気付く場面で歌われます。私はこれまで恋愛の歌として聞いていましたが、ここでは親子の愛の歌になっていて、しんみりさせるシーンでした。
- 「Empire State of Mind」...最後にアリの決意とニューヨークのコミュニティへの愛が歌われ、大団円となります。アリシアの最も有名な曲だと思いますが、「夢が創られる街ニューヨーク、できないことは何もない!」といった歌詞に胸が熱くなります。
キャスト達の歌唱も、エネルギーに満ち溢れていて素晴らしかったです。
アリ役を演じたのはJade Milanという女優で、若さと元気いっぱいで良かったですが、公演開始時はMaleah Joi Moonという別の女優が演じていて、第77回トニー賞の最優秀主演女優賞を受賞しています。
ジャージー役のJessica Voskは、ミュージカル「ウィキッド」の主人公エルファバ役を演じて有名になった女優です。白人女性なので、あれ?アリの母親役なのに...、最近よくある人種に縛られないキャスティングなのか?と思ったのですが、調べてみるとアリシア・キーズはアイルランド及びイタリア系の母親とジャマイカ系の父親の間に生まれたらしく、母親が白人なのは事実に基づくようです。このJessica Voskのパワフルな歌唱が圧巻で、ミュージカル全体のトーンにも合っていたと思いました。
その他にも、父デイヴィス役のDurrell “Tank” Babbsや、リザ・ジェーン役のKecia Lewis(この役でトニー賞の最優秀助演女優賞を受賞)など、実力・実績のあるキャストで固められていました。
一つ難点を挙げるならば、17歳のアリの短い時間に焦点を当てていて、ストーリーが薄いことでしょうか...。アリは、過保護とは言え娘のことを何より考えてくれる母親がいるし、リザ・ジェーンのような音楽の師匠に出会うことができたし、恵まれた少女だと思いました。失恋や死別があったとは言え、例えばティナ・ターナーの自伝的ミュージカルの「ティナ」の内容と比べると、さして大きなドラマも悲劇もありませんでした。
ただ、話が込み入ってない分、アリシアの曲を純粋に楽しむことができるようになっていると言えるかもしれません。
アリシア・キーズの音楽が好きな人はもちろん、少し聞いたことがある程度の人も、もしかしたらアリシアを全く知らない人であっても楽しめるミュージカルになっていると思います。ミュージカル初心者にも取っ付きやすく、お勧めできます。
最後に「Empire State of Mind」を観客も一緒に合唱しながら、このミュージカルをニューヨーク(それもヘルズ・キッチン地区のすぐ近く)で観られることの喜び、またニューヨークで生活していることへの感謝のような気持ちで胸がいっぱいになり、興奮のままに劇場を後にしました。

余談ですが、ショーの途中で観客の一人が歌い出し、それを後ろの人が注意して(というか暴言を吐いたようで)口論になってました。注意された人は怒って途中で出て行きました。ジュークボックス・ミュージカルでは知っている曲を歌いたくなる衝動に駆られることもよくありますが、プロの歌唱をじっくり聴きたい人もいるでしょうし、どの場面、どの曲なら一緒に歌っても許されるか等、周りの空気を読む必要がありますね。